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2001 年 7 月ぶんです。

★ ★ ★

2001/7/7 sat.

「日本の黒い夏[冤罪]」という映画を見る。(熊井啓監督作品、日活)
この映画、公開館が少なくロードショーで見逃してい、気づいた時には栃木の方でしかやってないので
片道2時間だから通勤圏だな、、でもどうしようかな、、とか悩んでいたのだが、
都内でも数少ない名画座らしい名画座「下高井戸シネマ」で「モーニングショー」が
掛かったのでやっと見る。ちなみにここで映画を見るのはレイトショーの「銭ゲバ」以来2度目。

中央線沿線には、好きな町が多い。下北沢に吉祥寺、中野は中野ブロードウェーがあるし、
もちろん新宿がある。四谷は食べ物がおいしいし、御茶の水は日本で一番好きな場所の一つだ。
で、さらに秋葉原まである。
にもかかわらず住もうと思わないのは、生まれたのが海沿いで、なんとなく「片側は海」という
感じで世界を捉えないと生きにくいような性質が出来てしまっているのだ。
武蔵野のほうは回りは山というイメージで、なんとなく窒息するような気がする。
もっとも今住んでいる東横線なんてぜんぜん海から遠いし、東京川崎じゃ最も海沿いを走る京浜急行沿線に
たとえ住んでも、海はべったり工場に被われて人は入れないのだが(上京したときは、
なんの権利でこんなに海岸を塞いでいるのかと憤慨したものだ)なんとなく気分の問題で、
城南、海沿い、という印象があって離れられないでいる。そのうちほんとの海沿いの湘南に住みたいのだが。

それでも武蔵野に行くとなんかウキウキする。ということで下高井戸で映画を見た。
映画は松本サリン事件を、河野義行さんの冤罪にスポットを当てて描き、マスコミ/警察が
人権の敵になる恐ろしさを描いたものだ。
描写は丁寧で、俳優はみな熱演してい、なにより事実の重みがあり、なるべく多くの人に見てもらいたい
映画だと思うのだが、それでも大きく不満が残った。
なんとなく題名やポスター、題材から、フリードキン/キューブリック系のリアリズム描写による
スピード感のあるホラー仕立ての映画を想像していたのだ。
まず「高校生の放送部の取材に、地方のテレビ局の取材スタッフが長い時間を取り、
胸襟を開いて取材に応じることで事件を振り返り、反省をする」という嘘臭い設定がいかん。
こういう狂言回しが必要ならアメリカの 60 minutes のようなドキュメンタリーのレポーターか、
「噂の真相」のようなへそ曲りなミニコミの編集者が、ふだんは取材される側であるテレビ局に
しつこく食らいついて恐ろしい事実が少しずつ明らかになっていく、ぐらいの設定ならまだ納得できる。

しかしぼくならそうしない。映画には家庭用電熱器を使った地に足がついたサリン噴霧器が非常に恐ろしい
効果を上げるシーンまでバッチリ描かれていたのだが、やはりあれを冒頭に持っていって、
オーソドックスに事件を時間軸順に、河野さんの一人称で描くべきではないだろうか。で、恐ろしい発症と
運命を分けた救急車を呼ぶ1本の電話、それから警察の対応、集まってくるマスコミ、市民の白眼視、、
という風に、日常の中に少しずつひずみが入り込んで行く状態を淡々と描いた方が全然面白いと思うのだ。

あとこの映画、悪いマスコミ、悪い警官、学校のいじめ、脅迫状などが全然直接語られない。
非常にマイルドに、噂話のように触れられるだけである。
心ない市民が投げた石がぱらぱらっと雨戸に当たる場面があるが、これなどもいかにも
描きたくないけど、ま、一応入れときました、という印象である。
スピルバーグなら投げる前の犯人の思いつめたような、幸福なような顔のアップから、
石がガラスを破って中の河野さんの頭に直撃し、血が出るまでやるだろう。そうした方がいいかはわからないが。

セリフは生硬で説明的、予定調和的で、非常に啓蒙的な印象を受ける。
そう、啓蒙なのである。非常に社会的なビビッドな話題を扱っているにもかかわらず、
なんか文部省が制作して体育館で見せられるフィルムのような、毒抜きされ、栄養を調整された印象を受ける。
まあ関係者の意向が働いたのだろうが、いくらでも面白くなった題材である。
で、ぼくは面白くした方が訴求力があり、社会的な意義も深まったと思うのだ。

それに、オウムを扱った映画がこれと石井輝男「地獄」だけというのも悲しい。
あんなに国をあげて、はっきり言って大盛り上がりに盛り上がった話題ではないか。
「地獄」は非常に下世話でオゲレツな映画だが、ストレートな怒りが伝わってくる快作だった。
(「恐怖奇形人間」「某八武士道」の芸術的なまでのキテレツなパワーは落ちているものの)
ちなみにぼくが見たのは黄金町のシネマジャックという小さな映画館だった。
黄金町という町はなかなか夜行きにくい町なのでよく知らないのだが、
シネマジャックってオウムの横浜支部のどまん前だったそうですね。
結構番組がいいのでそれからちょくちょく行くのだが。

2001/7/6 fri.

ひっさしぶりに読者からの読後感メール。みなさんどうぞ照れずにお便りくださいねー。
LSI の開発をされている方からのお便り。そんなえらい人にぼくなんかの本読ませていいんだろうか。
コマンドラインで動くオセロゲームという、あまり類のないプログラムをいただいた。(^o^)
普通 Perl でこういうことやらない、ということをやってしまうところが、実に Perl 流。楽しい!
本当に励みになる。生きてればいいこと、ひとつぐらいあるんだなあ。ありがとうございます。

2001/7/4 wed.

Jケラーマン「少女ホリーの埋もれた怒り」を読む。この題名はちょっとどうかな。原題は「時限爆弾」。
これだとまずいのはわかるが。単に「埋もれた怒り」ではだめでしょうか。

訳者が今回から北澤和彦氏。あとがきに北村氏が逝去されたこと、
北澤氏はこれまで編集者としてアレックスシリーズに関わっていたことが書いてある。
違和感のない出来なのでがんばってください。(偉そうに)

出だしで驚いた。学校の構内で銃の乱射事件があり、犯人はちょっとおつむの弱い少女。
アレックスは子供達のトラウマを防ぐためのカウンセラーとして尽力する。
どうしても最近の事件を思い出さずにいられないが、アメリカではスクール・シューティングという言葉さえ
あるほど、この手の事件が多発している。

なぜ人は無差別に人を殺すときに学校に向かうのだろうか。
とりあえず無差別に人を殺す時点で理解不能なのでそこから先は理解不能の2乗だが、想像してみると、
多くの人は学校という制度に何らかの潜在的な恨みを抱いて生きていくのではないかと思う。

別の本の話になるが、
斎藤次郎さんという教育評論家の「気分は小学生」(岩波書店刊)というドキュメントがある。
すごく面白い本だ。
長年に渡って教育評論家として研究を重ねていた著者は、ある日矢も楯もたまらなくなって
小学校に子供とともに通い、席を並べて勉強し、遊び、給食を食べ、掃除をしたいと思い立ち、
それを実現させてしまう。50過ぎのおっさんである。

で、その本に出てきたのだが、算数の授業で「3を7で割ると商はゼロで余りは3」というところで、
わからない子供が立たされて「3の中に7はイクツ入る?」と例の不条理な質問をされて立ち尽くしてしまう
場面が活写されている。(ちなみにこれ、教え方が悪いと思う。30 を 7 で割ってごらん、
20 を 7 で割ってごらん、10 を 7 で割ってごらん、と言って答えと余りを表にさせ、
じゃあ 3 は、と聞けばスッとわかるのではないか)
立ちすくむ子供を、成長した子供として生徒の席に座っている著者は(記憶に頼って書くのであいまいだが)
「教育の現場はどうしても先生が生徒より圧倒的にかしこく、子供は無力である、ということを、
 これでもかこれでもかと強調され、見せつけられるようにできている」
という趣旨のことを思う。

たぶんその子は他の大多数の子供同様明るく成長し、別に犯罪とか犯していないと思うし、
その先生(鎌田先生という20代の女性)は非常にすばらしい先生で、生徒に愛されていることが
書かれているのだが、こういう構造的な「圧倒的に不利な立場と、その立場を骨身にしみて感じさせられること」
が何度もなんども繰り返されるうちに、学校への恨みが澱のように降り積もっていく構造はないだろうか。
しかも、いい先生ばかりではないし、適切な指導ばかりではないことは周知の事実である。
じっさい、本屋に行っても、学校に恨みを持つものが長じて殺人者となって戻ってくる、という筋の小説はすごく多い。

もちろん犯罪者は許し難く、まったく同情できないが、
もしかしてその背景に構造的な問題があり、であれば有効な対策が講じられるのではないかと
思ってあえて駄弁を弄した。関係者の方は検討されたらいかがでしょうか。

さてアレックスシリーズ。今回も話がどんどんデカくなり、犯人の父親としてヘンテコな発明狂が出てくるに及び、
前半のしっとりした描写や政治家への怒りなどとの対比で思わず、おそらくは著者の意図に反して
大笑いさせられてしまった。

これはきっと、読むほうに問題がある。立て続けに読みすぎなのだ。
もう10何年前の小説シリーズを、ある日急に知ってイッキ読みするから、パターンが読めてしまう。
これは昔のビデオにしてもマンガにしても言えることだ。
「怪奇大作戦」というテレビとか、「寄席名人伝」「波浪雲」というマンガとかいずれも名作とされているのだが、
一気に読むと「あーきっとこうなるなー」「あーここで欲張った人があとでひどい目にあうなー」という読みが出来てしまい、
あまりにもズバズバ当たるので、筋を進めるためのセリフなどが鼻についてしょうがなくなる。
しかし、これは明らかに受け取るが悪い。作る方は週に1回や、小説の場合は年に1度、
普通の仕事とか他のテレビとかちゃんと間に挟んだ上で見ることを計算に入れて作っているのだ。
明らかにぼくはアレックスを続けて読みすぎだ。ここで休むべきである。

とはいえ、やはり次の「プライヴェート・アイ」を読み始めてしまった。
アレックスのガールフレンドとの関係がいまいち定まらないので、それが気になるのである。

関係ないけど「少女ホリーの、、」の中に、乱射が起こった学校で政治化の肝入りでコンサートが開かれるシーンがある。
作中では考えなしに行なわれたイヴェントに批判的な筆致で書かれていたが、これ、注意深くやったらいいんじゃないかと思う。
大阪の小学校でミニモニ。がコンサートやるとかどうだろうか。

2001/7/3 tue.

会社の就業規則というのをレビューする過半数代表者というののひとりに選ばれた。
当然詳しい話はできないが、結構ためになる話なのでさわりの部分だけ書きますよ。
会社は社長と管理職のことを使用者という。使用者以外のことを労働者という。だから労使というのだ。
ここまではいいですね。
で、就業規則(1日何時間働けとか、親が死んだら何日休んでいいぞとか)というのは使用者が定める労働者に対する命令であるが、
10人以上の会社の場合必ずこれを定めて、かつ、労働基準監督署に届け出る義務がある。
で、そのとき、労働者側の過半数代表者という人が使用者の定めた就業規則に対して意見書というのを付けないと、
監督署は受け取ってくれない。
この過半数代表者は会社が指名するのではなく、投票とか挙手とか民主的な手段で決めないといけない。
らしい。勉強になるでしょう。

で、投票をしたのだが、人気投票にならないために完全に無記名投票にしようということで、
CGI で電子投票システムを開発した。なんでも Perl でやろうとするなあ、、、。
で、自分で作ったシステムで自分が選ばれてしまったという笑える話。ま、やるからには楽しくやろうと思う。

うちの会社なんか全然のどかな仲良しカンパニーなのだが、それでもまあ、こんなことやってると
いろいろ結構面白いことがあるものだ。書けない話ではないが、まあ書きません。(^^;;;

2001/7/2 mon.

唐沢なをきさん著「うらごし劇場」(メディアワークス刊)という本の「たしかこんなんだったハズだよね(I、II)」という
コーナーにネットに投稿してたネタがいっぱい載ってて笑う。昔の怪獣テレビ番組のウロ覚えの記憶をあえて確認せずに
語り合うというものだが、思い込みが映像化されててうれしい〜。dindi というネットネームで載ってます。見てね〜。

で、その他のページも読了した。
数年に渡って2誌に渡って1ページずつ書かれた内容(基本的にエッセイマンガ)に、それぞれその道の達人がコラムをつけていて、
さらに書き下ろしの補遺マンガがついている。濃い濃いこい〜〜。
基本的に怪獣、アニメ、必殺(時代劇の)、おもちゃに関するオタク話を「そうでない人向けにうらごしして」話している、という内容の
エッセイマンガ。
とはいえ、わかりやすく説明するために引いてくる例えがまたわけわかんなかったりして、
ぜんぜんうらごしになってなかったりするのがまた面白い。
同工のオタク本、ノスタル本は数多いが、衒学的だったり、妙にマジだったり、妙に斜に構えていたり、バカにしていたりしているのに対し、
あくまでわかりやすく、しかもクールに、しかも笑いをまじえて、しかも熱く、愛を持って語るという、
読む方にしたら非常に気楽に読める本だが、書く方はむちゃくちゃ絶妙のバランスを持って書いていて、
しかもそれをラクラクとやってのけているような読後感。名人芸と言えよう。
版形が雑誌を縮刷しているので密集した手書きの字がものすごく小さいのだが、それを読み解いていくのがまた楽しい。
ぼくはオタクではないのだが(部屋が片付かないのでものを集めないし、記憶力がないし、子供の頃親兄弟がうるさかったので好きなテレビ見れなかったし)、
さいきんオタクの人と付き合いが多く、それで感じるのは、すぐれたオタクの人の話は、
オタクじゃなくても、その話を知っていればさぞかし楽しいんだろうなあという迫力で聞かせてしまうのだ。
ということで、「電脳炎」「怪奇版画男」などでキュートな唐沢マンガにひかれた人で、怪獣とかそんなに好きじゃない人に、むしろ読んでほしい一冊。

(以上)