日々叢書(この著者ちょこちょこ昔の文章直します。スイマセン)

スクール・シューティング

学校での銃乱射事件のことを、本場(?)アメリカではこう呼ぶそうです。
日本でも銃の乱射事件こそありませんが、刃傷沙汰や放火などが相次ぎます。

こういう犯罪は、それでどうお金を儲けよう、
人よりラクして楽しく生きようというのではなく、
犯罪そのものが自己目的的になっている、いわゆる愉快犯です。
「愉快」というにはやることが暗すぎますが、
自らの暴力衝動を解放するのが目的と言えるでしょう。

暴力衝動にかられる人は一定の割合でいると思います。
ぼくも水溜りに氷が張っているとパリンパリン踏み壊して遊んだりしたし、
怪獣映画とか好きなのでどこかにはそういう衝動がヒトナミにあると思います。

でもなぜ「学校」か、ということになると、ちょっと首を傾げます。
もし「誰でもいいから頭をはたいていい」ということになったら、
税務署とか、政治家とか、もっとそういう方に向かってもいいような気がします。
(そういう人は殴られて当然、と言ってるわけじゃないですよ ;;;)
なのになぜ通り魔は学校へ向かうのか。そして先生じゃなくて生徒を狙うのか。

まず、虐待される人は虐待する人に反撃しない精神構造になる、
ということがあると思います。
よく校内暴力の被害者が家に帰ると家庭内暴力の加害者、
というパターンがあるそうです。いや、そんな特殊な話をしなくても、
運動部で先輩にしごかれた人が後輩をしごく、というのは日常的に見られることです。
嫁・姑の関係もそうです。つまり、AさんがBさんを攻撃し、
BさんはCさんを攻撃することでモトを取ろうとする。
Aさんに反撃して世の中をよくしようという風には頭が行かない。
人間は怠惰にできているからです。このイージー・ゴーイングなところが
弱いものいじめにつながっていると思います。

かつ、上と矛盾するようですが、
学校という場所が、多くの人間にとってルサンチマンが鬱積している場所だと
いうことがあります。これを晴らす、卒業式後のいわゆる「お礼参り」のような習慣が
非常に時間を経て、屈折した形で起こるのがスクール・シューティングと
いえるのではないでしょうか。

よく教師は生徒を教室で馬鹿にします。
(ぼく自身は子供時代に知力のピークを迎えたので ;;;
 なかなか馬鹿にされませんでしたが)
教師は生徒より頭がよくて当たり前なのに、その立場をいいことに
弱い立場の生徒をいじめる。周りの生徒もいわば公認ということで
その子を笑ったりして自分のガスを抜きます。
よくM教師(問題教師)というとはっきりした暴力やセクハラが話題になりますが、
それ以前の微妙な言葉の暴力も大きな問題だと思います。

これは特定のM教師の問題というだけではなく、
学校というものの構造的な問題かもしれません。
ひょうきんな教育評論家が一時的に気がヘンになって ;;;
学校に頼み込んで小学生に一時的になってみる「気分は小学生」という本がありますが
(斉藤次郎著、岩波書店刊。めちゃくちゃ面白い本です)
この本で、先生は非常にいい先生として描かれているのですが、それでも
「なぜ学校で教師は圧倒的に優位で、生徒は圧倒的に不利、という立場に
 なるのだろう」
という疑問が提示されています。もし生徒の側に、先生も生徒も同じ人間だ、
ただたまたま現状の自分の知らないことを親が払った税金で教えてくれてるだけで、
そしてそれは、宇宙や動物や外国のことで、面白い、
というリラックスした視点がちょっとでもあれば、
だいぶ子供の心にも余裕が持てて、かえって学校好き、先生好きになるかもしれないと
思うんですが、なかなか現状ではそうはいかないようです。

なぜ学校が、卒業した生徒にとっても懐かしく、好ましい場所として存在し、
社会人になって疲れ、傷ついた元生徒にとって、
銃や刃物ではなくて花束を持って訪れたい場所として存在しないのか、
学校の側にも考える必要が(自衛の意味でも)
あるんじゃないかと思うんですがどうでしょうか。

Last Update : 2004/01/07 22:24