日々叢書(この著者ちょこちょこ昔の文章直します。スイマセン)

輝く日の宮

うって変わってバリバリの最近作です。
丸谷才一さん大好きなんで、そのうち読むつもりでしたが、
源氏物語を巡る論争小説という話で、あまり興味がないので抛っていました。

話は変わるんですが、斉藤美奈子さんという人の本を会社の女性に薦められました。
「えーとあの、エッチな・・・」
「いや、それは綾子さん。こっちは美奈子さんですよ」
「ああ、ヨーロッパの社交界では有名な、イタリアの家具とかくわしい・・・」
「それはまた、字が違う(澪奈子)」
ということで若干混乱しましたが、いわゆる戦隊モノや地球防衛軍の
「紅一点」を起点に男性社会で望まれる都合のいい女性像を分析した
(と書くと浅薄な要約ですが実際にはもっと奥深い)
「紅一点論」という本を借りました。いわゆるフェミニズム入門書的な本ですが、
これがめちゃくちゃ面白くて、
「男性社会で成功した女性は、自分と同じ苦労と経ずにのし上がろうとする
 女権論者を厳しく退けて自分の牙城を守ろうとする。
 これをクインビー(queen bee。女王蜂)という」
とか
「ヘレン・ケラーは親の死に目に遭えなかった。
 三重苦芸人としていわゆる寄席に出演していたから」
とか
「ファーブルの伝記の題名は『昆虫男(incect man)』である」
とか
「看護婦の鏡、ナイチンゲールは看護婦になろうとする女性に非常に厳しく、
 医師と同権になろうとする動きに激しく抵抗した」
とか(要約の責任は全部本項深沢)
言うところのトリヴィアが横溢してる本で、非常に楽しく読めました。

同じ作者の「妊娠小説」というのも読みましたが、
石原慎太郎の小説はわけがわからないという話は笑いましたが、
根気が続かず挫折したのは、やはり男だからかもしれません。

さて、なぜ長々と斎藤美奈子さんの話を書いたかというと、
ぼくが「輝く日の宮」を買って読もうと思った理由が、
斉藤美奈子さんが「噂の真相」の中で連載している
男性の女性差別発言を取り上げるコラムの中で、
「輝く日の宮」を大批判してるからです。

どっちも好意を持ってる作者の論争ですので、
読者としては頭が痛いところですが、
斎藤さんの論をぼくなりに要約すると以下の通りです。
「『輝く日の宮』は、源氏物語の成立の大部分を、紫式部が藤原道長の
 文学的指導と経済的庇護(重要なのが紙の提供)によるものである、
 ということを女性の学者が明らかにしようとする、という話だが、
 女性の学者がこのような、女性の世界的貢献を男性の手柄にするような
 研究発表はしない。学会はフェミニズムの牙城であるからだ」
というものです。(要約の責任はぼくにあります)

で、ぼくは斎藤さんの論理に違和感を持ちました。
ぼくは文学にも学会にもフェミニズムにも門外漢ですが、
・女性だから文学史を研究するときも女性の功績をもっぱら重視する、
 というもんだろうか?
・平安時代に女房が貴族に庇護を受けて文学を可能にしたからって
 それが女性をおとしめることか?
・斎藤美奈子と丸谷才一とどちらが国文学学会に精通してるかは難しい問題だ
という疑問を持ったのです。
で、1800円、434ページの本を買って読みました。
正直今月は経済的にも時間的にも厳しかった。
でも一読巻を置くあたわざる文章で、結局土曜の夜寝ずに読んでしまいました。

あー、面白れー・・・。

正直この作者の小説は「笹まくら」「横しぐれ」「思想と無思想の間」がベストで
「裏声で歌へ君が代」「女ざかり」あたりは、凡百の小説よりは全然面白いけど
「笹まくら」の緊張感あふれる感覚を期待して読むと、
ちょっとガッカリというものでした。

ちょっと小松左京に似ています。
話がトリヴィアに走る傾向があって、それ自体は非常に面白いんですが、
小説の行間に作者の人懐っこい顔が出てきてしまい、
物語に没入できない気がしたんです。それならエッセイを読みたい。
(丸谷のエッセイも超がつく絶品ぞろいです)
あと、小説の遊戯的技巧を追求するところがあって、
これは丸谷がむしろ使命感をもってやっていることでしょうが、
やっぱり我々シロートは自然主義リアリズムを要求するところがあって、
うまくノリそこねると没入しにくいところがあるのでした。

で、「輝く日の宮」ですが、作者のトリヴィア趣味、教えたがり傾向や
遊戯的技法、趣向が自粛されているかというと、むしろ爆発的に強調されています。
しかし、しかしですよ。これが逆に、論争小説という題材や、
女教授が愛人を教育するという趣向や、
千年前に道長が紫式部を。でもあんまり書いてるとネタばらしになるので
やめますが、そういう筋立ての中で、いちいち劇的に効いていて、
読者を作品世界に引きずりこむ武器に逆用されているのです。
これが面白くないわけないじゃないですかー。

おダンディな実業家が恋人役で出てきたり、
中年同士のセックスが濃厚に描かれたりしてて
(まあ元が源氏物語なんでこれも計算づくなんですが)
ちょっとおなかいっぱいで読みにくいところもあるんですが、
とにかく、面白い。本好きのための、本好きによる本です。
あとなんといっても冒頭の。
でもこれ以上は読む人の楽しみに取っておきましょう。

さて、斎藤さんの批判についてですが、
そもそも本書が小説家による学者批判になっているんですよね。
ということは、ケンカになるのも最初から仕方ない気がします。
また、平安時代から現代まで続く、男性社会の構造を援用しつつも
清濁併せ呑んでたくましく生きていく女性の姿を丸谷氏は描いているようで、
それは「女ざかり」にも共通するところですが、
それが斎藤さんに我慢ならないのかなあと思います。
とまれ、斎藤美奈子さんの文章はまた面白くて好きですが、
あの批評を読んで本書自身に触れないのはもったいないと思います。
むしろ論争を楽しむのが正しい読者の姿だと思います。

もうひとつ書きたいことがあるんですが、
ネタバレになるので頁を改めます。



ネタバレ注意



ネタバレ注意



ネタバレ注意



さて、本書の眼目は、源氏物語の失われた一巻「輝く日の宮」の消失の謎です。
そもそもそれはあったのか、なかったのか。
もしあったなら、なぜわざわざ消失させたのか。
本書の主人公の女学者安佐子は、そして安佐子の幻想に出てくる紫式部は、
そこに道長が書かれたくないことが(光源氏が、天皇の后を犯すこと)
書かれていたからではないか(それはもしかして道長が同じことをしたから)と推理します。
(これは、読者にもそう思わせて欺いている(ミス・ディレクション)
 ふしがある。私もそう思ってました)
しかし、最後に安佐子の幻想に出てくる道長が
「こうして、あえて消失した一巻を作れば、
 なぜ消失させたのかがをみんなあれこれ考えて、
 謎と共に作品が永遠に残る」
という意味のことを言っています。
なにしろ、ここまで「なぜ消失したのか」を巡って大勢の学者が、
そして本書の読者があれこれ考えた後ですので、
ちょっと面白すぎる、できすぎじゃないの、と思ってしまいますが、
これはありうるかもしれない、と思いました。
フェルマーの定理や四色問題を始め、
数学の問題は解ける問題より解けない問題に有名な問題が多い。
それはみんなが一生懸命考えるからです。
その証拠に、フェルマーの定理はわりとさいきん証明されたんですが、
証明した人の名は、ええと、すぐ出てきません ;;;

Last Update : 2004/01/11 23:30